本物はおいしい


私は天邪鬼であるのか、となりに有名人がいても知らん振りをしてしまうのです。アメリカの学会の帰りに、飛行機の隣にゴルフの有名な丸山茂樹さんがいても、話しかけたくても、むしろ意識してできなかったことがあります。美しい女優が居た日には、耳と感覚は隣に向いていても、見ることさえ意識して出来ません。
多分、ファンとしては屈折した心理なのでしょう。俳優や有名人の周りに無邪気に近づくファンをうらやましくさえ思うこともあります。
その点私のような眼科医などは職能の専門家であり、俳優さんや歌手のような無邪気なファンに囲まれているわけでは有りません。患者さんの関心は自身の困った眼の病気を何とか治してほしいとの実利的なことです。しかも、眼は感覚の9割を占めており、命に次ぐ重要な要素でしょう。患者さんの治療に万全を尽くしても、手遅れであることも多くあります。患者さんが『当院について早く知りたかった。』との、落胆の気持ちを聞くのはつらいものです。
私は患者さんと個人的親交は今まで避けるようにしていました。しかし、自分が門外漢の建築の問題に相談にのってもらったことから、素晴らしい親交があることを知りました。建築を知る方なら誰もが知る『GA』という建築誌などを発刊する、世界で最高の建築写真の大家である二川幸夫先生とお知り合いになれたことは素晴らしい経験でした。先生は建築はもちろんですが、そのあらゆる分野への博学ぶりは学ぶことばかりです。二川先生の業績は数限りなくありますが、建築家を見出す才能は傑出していて、有名な安藤忠雄氏も若い頃二川先生に評価されて世に出ました。
普通なら有名人は無意識に避ける姿勢の自分が、安藤氏には自然と話しかけれました。二川先生から色々とお伺いしていたからでしょうか。安藤氏は世界的に高名な建築家ですが、若い頃プロボクサーであったことから、かなりごつい方と思っていました。しかし、小柄な、とても穏やかな印象で、何よりも握手した手が小さくて、とても柔らかな手だったのが印象的でした。話はとても面白く、どんな分野でも頂上を見届けたか方にしか言えないような含蓄に富んだ内容でした。『本物はおいしい』のです。本物に触れたときに、ああなんでもっと早く、この本物の建築家を知らなかったのだろう、と思えました。
私の患者さんたちが、いろいろと回り道をしながらも、やっとの思いで救いを求めて日本中からやってきます。しかし、中にはもはや手遅れの方も多いのです。そして、決まって言うことは、『もっと早く知りたかった。』と、の言葉です。いままでその言葉を理解しているつもりでした。心から気の毒にと思っていました。でも、本当には理解してなかったのかもしれません。二川幸夫先生や安藤忠雄先生に会って、早く知りたかった、と思った気持ちは、本当に自分が困難な問題に遭遇した、表裏の合わせ生地のようなものの実感だったのでしょう。
今改めて、患者さんの藁をも掴む思いで、最後の頼りと来院した患者さんの、気持ちを理解できる気がします。私には、俳優や歌手のように、華やかなファンが居るわけではありません。が、むしろ生命の根源に繋がるような助けを求める声を持った方にとり、『本物はおいしい』と、感じていただけるような努力を続けたいと思います。