生きることの意味

大げさなことのようで、実はいつもまじめに考えなくてはならないことであり、かつその答えはとても難しい。
僕が高校生のときは、生きることはなんだ、と自問自答しながら、ある哲学者が、“生きるとは経験することだ。”と述べていて救われた気がしたものだ。つまり、生きることの優劣でなく、生きること自体が、色々と経験すること自体に価値があるということであった。
高校生時代は、先も判らず、暗中模索であったが、とりあえずは興味を持つものに没頭した。
高校生のときに当時、格好いいなとまた海外に行くことにあこがれた僕は、50倍の難関であったが、宮崎の航空大学に入学しパイロットの道に入った。しかし、その後の石油ショックなどで方向転換を余儀なくされて、勉強しなおして、医学部に入った。当時の医学部は現在の80校の半分の40校しかなく、特に国立は現在よりずっと入学が難しかったが、入学後の待遇は良かった。幸い国立大学は授業料が、公立幼稚園の月の8000円より安く、月に3000円であり、親の収入の差で志望が限定される現在の仕組みより、もっと民主的であった。しかも、2年生からは親が定年となったために授業料免除となり、豊富な奨学金と自分のアルバイトで十二分に自活できた。思えば、徒手空拳であっても、自分で自分の道を切り開ける良い仕組みが日本にはあった。
パイロットの免許は取ったが、日本の不況でパイロット採用が無く、日航パイロットの道を断念したときは断腸の思いであったが、今やその日本航空が実質的につぶれてしまい、転進した後に、眼科外科医として世界最高の実績と世界中からの患者の救いとなっている。パイロットであったら機長として退職しこの若さで引退となっていたかもしれない。人生とは分からないもので、あの哲学者が、人生とは経験することなり、と言った意味は感慨を持って実体験と感じている。
先日、私の患者さんでもあり、かつ人生の偉大な先達といえる細川護煕さんの湯河原のお宅を訪ねた。言うまでも無く、細川さんは元総理大臣として著名であるが、細川家700年の血脈が生んだまことに稀有な日本の誇る紳士である。
細川さんは60歳で政治家を引退して、その後、陶芸の世界に入り、今や陶芸世界の超人気作家でもある。さらに、書に優れ、文章家としてもプロであり、その晴耕雨読の生活を実践される生き方は憧れでもある。
細川さんは母方の祖母の近衛さんが使っていらした湯河原の別邸を気に入っていらして、それを譲り受けて、今は生活の場としている。湯河原は今やかなり開発されているが、山のずっと上の細川邸は町の喧騒が全く聞こえない、実に閑静なところである。敷地内に湯河原温泉の源泉があり、庭にはお湯が流しっぱなしでコンコンと湯が湧き出ている。お宅は古い日本家屋ではあるが、暖かいので驚いたが、床にこの温泉湯が床下暖房として使われているのだそうだ。細川さんは食事も健康的で、ご自宅で搗いた蕎麦と山菜の天麩羅をご馳走していただけた。冬の日の中で温泉の床暖房で南からの日差しが心地よい中で、細川さんと文学や芸術を語り合うことは、僕にとりまことに至福の時間であった。細川さんはいつも穏やかでいて、ところどころにユーモアたっぷりのお話のタイミングが心地よい。


母屋の近くに作業所がいくつかある。これは、焼き物を作る釜のひとつで、楽焼を作るための高温の釜である。この釜の中にひとつひとつの作品を高温で焼くが、細川さんは上から長い金属の長柄棒でつまみ位置を整えながら、消防士のような耐火服を着込み焼くのであるが、釜の蓋を開けたときに、髪の毛や眉毛を焦がすこともあるそうな。芸術家の顔がそこにはうかがい知れる。
別の棟には轆轤がおいてある。細川さんは立って轆轤を回す。全体を眺めながら近くや遠くから眺めるのに適している。僕も油絵をプロとして描くが、近くでみたり離れてみたりする距離の変化やとり方は見方にとって非常に重要である。
細川さんは2年ほど前に、見え方が少しおかしいと深作眼科を受診して、私が白内障手術を施行して、多焦点眼内レンズを移植した。さらにしばらくして、少しある乱視をLASIK法で完全に除去した。今や、裸眼で1.5の視力があり近くもどんな細かい文字も読める。面白いのは、私の手術以前の細川さんの本にある写真では眼鏡をかけている。しかし、私の手術以後の写真では裸眼姿である。その答えは、私が施行した、多焦点眼内レンズ白内障手術とLASIKなのである。すべての視力表がすべて裸眼で見える、超人的な目に変えたのである。


屋敷の上に、独特のお茶室がある。伝統的な形とは違うが、これが実に心地よい。例によって、床下には温泉の暖房が入っている。窓からの採光も充分である。細川さんはここでお茶を振舞うだけでなく、読書や昼寝にも使っているようだ。炉は平安時代の1000年も前の釜が置かれている。この釜は京都の古道具屋さんが持ってきたが、替わりに細川さんお気に入りの自作の茶碗を3つも持って行かれたそうだ。

細川さんとはまた毛色が違うが、努力と信念と才能で自分の宇宙を切り開いた敬愛すべき方に安藤忠雄さんがいる。細川さんと一緒に直島の安藤さんの建築と美術を見た。細川さんが細川700年が納得できるお殿様であるが、安藤さんのその馬力は大阪城豊臣秀吉のような気がする。違う世界の敬愛すべき日本を代表するお二人は実に魅力的な方たちだ。これらの方たちが、私を世界最高の眼科外科医として選んで眼のことでいらっしゃることは大変な名誉であり、また、日本の中で世界最高の眼科医療を提供し続ける覚悟をさらに強く持つ励みにもなる。

私は、ずっと佐々木豊さんの指導を受けて、さらに今は大津英敏さんの指導を受けて、美学の分野で世界が驚くことを見せてやろうと思っている。眼科手術の世界で世界一と実に多くの受賞と実績を上げられたが、美学のと医学を結びつけた世界は自分にしかできないものであるからして、これを世に問うのは自分の責務であると思う。
この絵は、独立協会展のなかで両側の二枚はアフリカでの取材から作製した油絵で、130号と100号の大作である。今後は小品と大作とで個展も考えている。絵を描くことは、実は自分の哲学を眼で見える形に昇華するものであるからして、私のように世界の中で、もまれてきた経験による哲学と美学を表現することこそ芸術であると断言できる。