青年は荒野をめざす。

僕が高校生の頃はいつか海外を旅して、世界の中で活躍してみたいと思ったものでした。今より気楽に海外に行けない頃です。五木寛之の小説にある”青年は荒野をめざす“などの本に影響も受け同じ道を辿ったこともありました。高卒後は宮崎の航空大学でパイロットの道を目指したのも海外への憧れからでした。世界不況情勢からパイロットの道から医学の道へと転進しましたが、やはり海外での活躍を目指し、臨床医学アメリカやドイツで修学し、海外の国際学会にて発表し多くの受賞も受けています。何歳になっても学生時代と同じに常にチャレンジを繰り返しています。世界で認められるに連れ、自分が審査する立場になり、また世界の多くの分野で活躍する方々とも知り合うようになりました。

最近、世界のなかで大使として活躍し、ハーバード大学等でも日本の芸術や国際法を教え、現在オランダ、ハーグの国際裁判所の裁判官を勤める、小和田さんとハーグで昼に会談しました。この写真は、当日の夜に日本料理店で食事をしたときのものです。
来年はオランダと日本の通商条約締結後400年記念です。日本にはオランダのシーボルトなどの資料の里帰りもあるようです。日本からは細川家700年の宝物を展示する計画があるそうです。
小和田さんはアメリカ時代に、ライシャワー元駐日大使などと協力して、ハーバード大学で書道などの日本文化を実技と共に教えたことがあります。専門は国際法ですが、お話ししていると実に多くの文化に精通して、教育への哲学が素晴らしいのです。いつか日本人の教育に指導的な立場で活躍していただきたいものです。

次の写真はライデン大学の中にあるシーボルト記念館の中で、東洋学のヒューリック教授とのツーショットです。シーボルトは日本に始めての西洋医学をもたらし、日本の実証医学を劇的に進化させた医師です。もともとドイツ人の医師で、オランダ人のふりをして、大学卒業後25歳の若さで日本に来たわけです。植物など全ての博学に興味を持ち、医学部でも首席の卒業生でしたが、海外に強い興味を持っていた方です。日本人との間でイネと呼ぶ娘がおり、彼女は日本で最初の女医となって産婦人科医となっています。長崎の鳴滝塾で医学の講義と西洋の文化も教えたのです。当時のオランダ人の居留地の出島の日本人責任者の白内障手術をしてやり、その劇的な効果に感謝したことで、かなり自由に日本のものの収集が出来ました。植物類は特に有名で、ライデン大学がヨーロッパの中でも有数の植物学のメッカで著名なリンネが研究に来たほどで、これもシーボルトの影響です。シーボルトは興味から、禁制の日本国の地図を、弟子を使って集めました。これが、のちほど発覚して、シーボルトは日本からの追放になるのですが、最後まで日本への愛情を持ち続けていました。
以前、私も長崎の鳴滝塾跡を訪ね、いつかシーボルトを訪ねたいと思っていながら、やっと今回のライデン大学シーボルト館への訪問となりました。ハーグでも小和田さんと会合したことも楽しかったですが、ハーグの王立美術館で念願の絵と出会えました。それは、フェルメールの“真珠の耳飾りの少女”、そして何とか見たかったレンブラントの“解剖学講義”です。それに出会えて、感動しました。どんな分野も医学と関連するものはぐっと興味を覚える。自分にとって医学は最も興味を引く分野であり、ほとんど人生そのものである証拠なのだろうと改めて思えました。