大航海時代


ヨーロッパの学会は、毎年場所を変えて、歴史ある土地で開催されることが多いのです。この年のヨーロッパ白内障屈折矯正学会ESCRSは日本ともなじみの深いポルトガルリスボンで開催されました。
写真は昔は宮殿の中庭であった場所です。豊かな歴史と豊か当時の財政が偲ばれます。
日本とは歴史上、なじみの深いポルトガルです。ありがとうが、ポルトガル語ではオブリガートと言いますが、ありがとう、というように聞こえます。カステラや金平糖ポルトガル語がそのまま日本語に残ったものです。
かつては世界交易で豊かであり、エデンの園と呼ばれたシントラ地域と呼ぶ、お金持ちが贅をきそって多くの華麗な建築を建てた地域がリスボン郊外にあります。
いまや、小国となったポルトガルですが、かつては多くの船団を引き連れて、世界中の海を交易で行き交う大帝国のときがありました。今でもブラジルはポルトガル語ですし、アジアでは南インド会社のあったマドラスを中心にポルトガルの影響が残っています。最近までは香港のとなりのマカオポルトガルの橋頭堡でした。
ポルトガル人が日本に持ち込んだのは交易とともに、宗教と種子島という鉄砲の近代兵器、さらに西洋医学もあります。
古来からの伝統的医学は漢方薬を中心としたもので、医師が薬師と呼ばれていたことからも分かります。私は手術を中心とした西洋医学が中心してます。一方で、学生時代より東洋医学の研修を繰り返しました。医師になってからも西洋医学手術修得で日本および海外で手術の専門家となっていますが、これとは別に東洋医学を究め、東洋医学会専門医と漢方専門医ともなりました。本来はそれぞれが独特の良さを持った医学です。しかし、時代と共に互いに主流が変わり、互いに偏見の眼で見がちです。人間の習性でか、自分と違うものは否定しがちで、特に伝統的な閉鎖的農民的国民性から日本の中で顕著です。
西洋医学が一般的な現代日本ですが、江戸時代までは漢方医学が主流で、現代とは逆に、西洋医学への風当たりは相当なものでしたでしょう。
眼科は本来が外科の専門分野です。しかし、漢方医学でも、白内障に八味地黄丸が使われます。これは、今でも私も使います。白内障が治るわけではないのですが、視力が向上することも確かです。しかし、根本的な治療は手術です。しかし、小さな眼球の手術が成功裏にできるようになったのは、極近代のことです。
インドの古代文書の約3000年前に白内障の治療法としてカウチング法という眼窩の上方外側を硬い石のようなもので叩いて、白内障を眼の中に落とす方法があります。この方法は中国でも比較的最近まで行なわれていて、建国の父の毛沢東白内障はこの方法で行なわれています。もちろん良く見えるようにはなりませんが、その3ヵ月後に亡くなっており、責任論にはなりませんでした。実際の手術ではアフリカの一地域ではまだ行なわれています。さらに、細い針で水晶体を刺して、奥に落とす方法などは、昔の日本でも行なわれていたらしく、何々流の秘儀として伝承されていました。おそらく、キリストが白内障で見えなくなった人をこのカウチング法や変法で見えるようにしたらしく、これは神の奇跡として聖書にあるがごとくです。
一例を挙げれば、日本では、現在でこそ白内障手術後に眼内レンズを移植するのは常識ですが、私たちがいち早く始めたときには、あんな危ないものと言われたような方法です。しかし、1980年代後半では欧米では眼内レンズ移植は当たり前でした。それが、日本では危ないものと責められる訳ですから、欧米で学会に発表したり研修したりしている我々には、まるで別世界に取り残された思いでした。
知らない世界を知りたいという大航海時代ポルトガル人のような欲求と、自分の世界に閉じこもるのが善と思われた鎖国時代の日本と、全く違う価値観を私自身は理解できますが、もはや世界に開かれつつある日本では許されないこととなりつつあります。そのためには、自分が知らない世界があることを謙虚に認めることと、自分の理解できないことや知らないことに反発するのではなく、尊重する必要があります。最初に行なう者は失敗を恐れない冒険者であり、慎重でありながら、大胆な試みを果たす努力をしております。後だしジャンケンのような手段を良しとする風潮は健全な挑戦者を萎縮させるだけです。
我々日本人も今や、あらゆる意味で大航海時代に入りました。未知の分野へと挑戦する人々をサポートすることを美徳とすべきです。医師、患者ともどもに、新たなる挑戦と変革をともに成し遂げようではありませんか。



ポルトガルには大航海時代の遺跡が多く有ります。これらの華麗な海辺の建物が、大航海時代の人々を世界に送り出し、また帰国を迎えたのでしょう。日本も、大航海時代の国際化へと向かう人々の故郷としての温かい面は残してほしいものです。