匠の技との出会い

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2008年2月17日
時に、驚くほどの匠の技に出会うことがあります。ときには無理しているのかと思えるほどのこだわりです。
写真は、安藤忠雄先生の設計した住居では最高傑作だと思う、城戸崎先生のお宅の中です。丁度、雨の昼下がりで、光量が少ない日でした。しかし、西側のリビングの壁が、優しく明かりを取り入れているのに気づきました。美しく磨かれたコンクリート天井が、途中で鋭く切れており、壁と天井との空間から空からの自然光が注いでいました。天井が天井自体の強度で支えられているのです。コンクリートの角も鋭く直角で面はコンクリートしては異例に滑らかなのです。電気コンセントも滑らかなコンクリートの壁に埋め込まれているのです。初めからしっかりと設計で位置も決めて、窪みを作っているのです。壁のコンクリートの隙間には5メートルほどの長細い一枚板の硝子がはめられていますが、継ぎ目の無い長い硝子は運搬中に何枚も割れたそうです。こだわりはやせ我慢に近い努力が必要です。
以前に、安藤忠雄氏との出会いをお話ししました。いまは大規模建築がほとんどですが、若い頃の中心だった住居の設計にて、城戸崎邸で最高度の頂点に達しています。最近、建築を少し勉強し始めた私には、安藤氏の頂点の作品には驚きました。住んでらっしゃる城戸崎先生も建築家です。しかし、オリジナルの状況に敬意を払って、寝室でもカーテンを掛けずに、日が昇ると起きる生活に慣れたそうです。安藤先生、城戸崎先生そしてお二人を見出した世界最高の建築写真家の二川幸夫先生のご指導により、最近では私も、新しい世界である建築の世界を勉強するようになりました。
どんな専門の分野でも、本物がもつ世界を知ることは最高の喜びです。
私は、医学の勉強前に、他にもいくつかへの興味がありました。父親が軍の予科練飛行士の学校にいたことや、母親が助産師であったことから、空と医学の両方にも興味ありました。ただ、高校時代は、絵画に没頭しており、絵描きになるために芸術大学に行こうかとも思っていたものです。しかし、警察官僚となった父親がアメリカ出張時に羽田空港の待合室に居たところ、廊下を制服姿のパイロットが搭乗に向かうシーンをみました。それが、かっこいいなーと思え、行動がすばやいことに、急遽、パイロットになる学校を調べ、高校在学中に、運輸省の国立航空大学受験に至りました。
入試倍率は40倍ほどで、初めに身体検査、2次が学科で3次は飛行機実機で搭乗運転しながらの操縦検査でした。1次の身体検査で、握力が30kg以上ないと失格という検査がありました。昔は、油圧が効かないときに、操縦桿を動かすのに力が必要だったのかもしれません。試験の列の前に、神奈川の出身者がいました。彼は、角刈りの風貌と違って、握力が弱く、何度屋っても25Kgがやっとでした。彼はたかが握力で落第しそうで、もう泣きそうな顔で困り果てていました。そこで、隣り合わせであった私は、とっさに、横からぎゅっと、握ってあげまして、彼もなんとか通過しました。
3次試験は、宮崎に試験地を移しました。宿舎の旅館で、同郷の彼も2次試験を通過して、同じ宿舎でした。彼は親切にも、試験法を解説してくれました。試験内容は実技で、飛行機の計器のみを見ながら、外は目隠しをして、水平飛行、100フィート上昇、水平飛行でした。しかし、私は計器など見たことも無く、他の参加者は写真や、実際の計器の模型を持って練習していました。来る前に、実機でかなり練習した人もいました。そんななかで、握力計でお手伝いをした彼が、計器の手製の模型を持っており、恩義を感じたらしく、僕に計器飛行の計器の読み方や注意点を教えてくれました。試験当日、くそ度胸だけはある私は、みごとにほほ完璧な出来でした。全てがはじめての私に、試験官が、『お前よく出来るなあ。どこで飛行機のトレーニングを受けたんだ?』と、驚くくらいに、私の飛行技術は高いと評価されました。火事場の馬鹿力といいますが、非常に緊張する場面で、妙に頭が冴えて、落ち着きはらえるような特性があるのだと知りました。その後彼とは共に合格し同級生になったのです。
普段の訓練中はアクロバットも出来る機種なので、60度バンクで横に滑りながら下りるなどもできます。民間パイロットは乗客に快適な飛行を心がけますが、航空大学では空域への行き帰りでは結構、戦闘機のようなアクロバット飛行も行うのです。
そういえば、アメリカ空軍で、パイロットもレーシックを受けることが認められています。それが、昨年にはNASAの宇宙飛行士もカスタムレーシックが認可になりました。我々の深作眼科でのレーシック手術に使う機械は、この米国の戦闘機パイロットで推奨され、かつNASAの宇宙飛行士の手術が認められたのと同じ最新機種です。患者さんが戦闘機乗りでも宇宙飛行士でも無くても、同じ精度の高さで手術を提供します。これが世界最高レベルの眼科手術専門センターである所以です。
今や、飛行機は海外の学会の行き返りに乗客で乗るのがほとんどです。アメリカでは飛行機好き医師も多く、私の知り合いは古い旅客機のDC4を持ち、趣味で飛んでいますが、うらやましい限りです。夢ですが、セスナ、サイテーションジェットを自分で運転してどこか行ってみたいですね。
ラインパイロットで日航を希望していたのです。しかし、オイルショック、成田空港未開港の問題で、JALなどで、パイロットを採用しないこととなりました。今では、日航がここまで問題を抱えた会社になるとは思えませでしたので、当時は非常に落胆したものです。今となっては返って良かったのですが、人の運命など分からないものです。あのままなら、いまごろ機長になって、今日のニュースにあったような、千歳空港での事故一歩手前のニアミス事件を起こしたかもしれません。
こうして、医学部へと運命を転換しなくてはならなくなったのです。当時の医学部は学力も必要でしたが、私立では寄付金が必要で、私の家の経済力では不可能で、国立大学医学部しか経済的に無理でした。学力試験の難しさは今よりもっと厳しく、現在80ある医科大学が、当時は半分しか無かったからです。お隣の韓国の行き過ぎた学歴社会での入試試験地獄は、当時の日本の医学部でもごく普通で、受験生の大変さは異常な世界でした。
幸に、その頃の国立大の医学部学費はとても良心的で、1年で36000円でして、当時の幼稚園学費が年間で10万円ほどですから、安いですよね。月3000円の授業料は身の丈にあっており、ふだんの暮らしも、家庭教師と、塾教師の収入で充分豊かな生活ができました。日航を希望していたのも海外への憧れがあったのですが、学生にしては余裕があったので、長期休みごとに海外へと貧乏旅行を楽しむことが出来ました。
今では国立でも医学部は高いそうです。教育は最も重要な権利ですが、やる気のある学生が自活できるように、高等教育こそ安くしないといけないと思いますが。
私は、優柔不断で決断が出来ないことが良くあります。しかし、このような、運命に翻弄された経験から、人には絶対にこれでなくては駄目だなどということは無いことが分かってきました。自分ではどうしようもない運命があれば、これを積極的に受け入れることで、次の道は直ぐそこに控えていることを実感したものでした。