恋する視力



今日も多くの手術を施行しました。白内障緑内障、多焦点眼内レンズ、硝子体手術、網膜剥離、糖尿病性網膜症など盛りだくさんでした。
最高の視力を得る人もいれば、そうでない方もあります。それぞれの病状において手術も違えば結果も違います。
多焦点眼内レンズ移植術後に裸眼で、遠方視力が1.5であり近方視力が1.0も、メガネ無しで見える方があります。この方はもちろん大満足です。
一方で、今日の方で、白内障緑内障、角膜混濁を合併している方を手術しました。この方は角膜移植手術、白内障手術が終了して、さらに重症の緑内障に対して薬ではコントロールできないので緑内障トラベクレクトミーを施行したのです。この方は視力もあまり良くありません。視野にいたってはほとんど欠けています。我々の施設に来たときにもはや手遅れの状態でした。このような方を、手遅れですねと言うのは簡単ですが、少しでも可能性がある限り、積極的に治療するようにしています。しかし、結果は改善したとは言え、視力が0.5で視野はほとんど残っていません。こういうときに、予想しているとはいえ患者さんの期待に答えられていないんじゃないかと、申し訳ないような気持ちになります。出来たら全部の方に1.0以上の視力を提供したいとの思いは誰に対してもあります。
患者さんに対して、結果が、充分でなくて申し訳ない、と言う場合もあります。しかし、患者さんの反応は違います。『先生、私はあきらめていたのが、こんなに見えるようになって大変嬉しい。少しでもよくなることは素晴らしいことです。』とか『今まで、他院で失明するとしか説明されなかったのが、視力が少しでも永らえて嬉しい。』などとの積極的な反応が大部分です。
見える喜びはひとりひとり違うのです。仮に、光しか見えなくても、暗闇から救われたことは誰よりも大きな喜びとして感じているのです。
もう、昨年になりましたが、11月末に紅葉の季節に京都の清水寺の夜間拝観に訪れました。暗闇に赤くぼんやりと浮かび上がる、ライトアップされた紅葉は昼間の鮮やかな錦の紅葉にも負けないくらいの、見えることの喜びを感じさせてくれました。
清水寺は観音様を祭っており、紅葉の季節には特別拝観があります。昔の人の観音信仰はとても熱心なものでした。観音様への信仰の強さの証明と自分が観音に近づきたいとの思いで、清水の舞台から飛び降りた、のです。現在はこの言葉は勇気を奮う意味で使われますが、本来は観音信仰の強さを現す気持ちでした。清水の舞台は、江戸末期には、飛び降り防止で竹矢来が組まれていたそうです。いまは夜の紅葉を楽しむ観光客でごったがえしていますが、飛び降りる人もいなければ、観音様が中心であることも知らない人がほとんどでしょうか。
ぼんやりと暗い夜空に浮かぶほのかに赤く見える紅葉を見ながら、こんなことを思っていました。見えるということは絶対値では無く、その方の感じ方で喜びが全く違うのだと思えてきました。
清水の舞台を飛び降りる気持ちで、藁をも掴む気持ちで、日本中から重症の患者さんが来院します。私は、本来の意味の、清水の舞台から飛び降りる、観音様を拝むように来られた患者さんを、とても大切に思います。
見え方は他人には推し量れないその方の喜びがあります。まるで見え方に恋するように、喜びを感じることができるように、微力ながらお手伝いをしたいと思って、恋する視力、としました。