『眼脳芸術論』、医学と芸術学の融合芸術論で7月6日生活の友社発刊


 来る7月6日にいよいよ医学と芸術学の両方の専門家としての、世界にもまれな芸術論である、『眼脳芸術論』が発刊となる。美術出版の大手である『生活の友社』からの出版である。本屋さんやアマゾンや生活の友社からでも買えます。この題名と本の装丁は、世界的なデザイナーの前東京藝大教授の河北秀也先生です。この内容は、もう4年間も月間の美術専門誌の「美術の窓」に毎月連載している、「眼と脳がアートを創造る(つくる)」を校正加筆したものである。初めは1年間12回の予定であった。当時、眼科医師として手術中心で多忙を極めながら、優秀な眼科外科の弟子も育ってきたこともあり、時間を無理やり作り、多摩美術大学の大学院で学び卒業した。大学院からの医学と美学を併せ持った研究業績を生かせるものと考え、丁度美術の窓から連載のお話を頂いたので受けたことから始まった。これは実に大変なことであった。実際に医学は長く専門として行っており誰よりも眼科生理学や脳科学の知識は豊富であると自負はあった。しかし、この雑誌は熱心な美術愛好家や専門の芸術家に広く読まれている芸術専門誌である。なまじっかな芸術学の知識では太刀打ちできない。そこで、毎月芸術関係の本を20冊ぐらい読まねばならなかった。多くが英語の専門書であった。この為に、連載開始以来4年間経つが、美大の大学や大学院で学んだ芸術学よりもはるかに勉強した。時には従来からの評論家や美術館学芸員などよりも遙かに専門的な深い知識と正確さが有るとの評価を美大や藝大の教授などから多くいただいた。
 内容は専門的な内容を一般の方々が理解できるように噛み砕き述べた。ただし、従来の展覧会図録や評論などとは全く異なった切り口であることも心がけた。簡単に言うと、芸術や画家の本質を深く掘り下げていることだ。この本の序説について引用し、この本の制作に至った理由を自分史的に紹介する。一人でも多くの人がこの本を読んで、芸術をより身近に感じ、そして画家や芸術の隠された真実に触れ、芸術をより身近に感じて頂きたい。横浜駅前西口深作眼科本院でも深作眼科東京六本木院でも眼科ビル内にギャラリーがある。これは、手術によって視力を取り戻した患者さんに、まずは美しい芸術で目を喜ばせて頂きたいとの思いの延長にある。4年間の膨大な時間を使った私の芸術論です。読んだ方は驚くほど面白いと好評です。

以下は序説です。
      はじめに
子供の頃より絵が好きな子供だった。幼稚園に行きたがらない兄の代わりに、2歳から3歳上の子供達と一緒に幼稚園に通い、意図しないで例外的な早期教育を受けたようなものだ。教室の前で絵ばかり描いていて園長先生が褒めてくれるのがうれしかった。また門前の小僧のように他の子供より早く言葉も覚え、3歳ごろから漢字も覚えていた。本来の幼稚園児の年齢の6歳では、大人に交じって油彩画の教室に通った。ピカソが早くからアカデミックな芸術教育を受けた意味も分かる。
元海軍のパイロットで戦後に警察官になった父と、日本赤十字の学校で勉強した助産師の母親の影響をしらずしらずに受けた。そして、高校時代の将来なりたい職業は、一にパイロット、二に医師であったが、しかし子供の頃より馴染んできた絵画の魅力も頭にあり三に芸術家であった。もっとも、どれもこれも実際には身近にその職業の人がいた訳でもなく、どのようになるのかも知らない漠然としのんびりしたものだった。
父親が警察署長としての海外視察が有った。今では考えられないが、昭和46年当時に羽田空港から出るアメリカ行きの視察は誇りであり親戚一同が集まって見送った。この時にアタッシュケースを持ったパイロットを見て、かっこいいなと、自分もなろうと決めてその方法を進路の参考書の蛍雪時代をすぐに調べた。怖いもの知らずとはこのことで、全く準備もしていない素人がやる気だけで50倍の難関を通り航空大学に入学した。思えば海外への憧れが多くあったのは確かだ。しかし、3年後には石油ショックなどが理由でパイロットが余り、地上職しかないとされ、それならば医学部入学へと方向転換した。人生とは思い通りにならない事の連続であることをかなり若いうちから身に染みたものだ。公務員の家で、私立医大に入れるお金も無いので厳しかった。ただ、数学と英語の勉強が得意であった為に国立医大に入れた。当時は学費も月3千円と安く、家庭教師や特別奨学生でかなりの収入があり、21歳から自活して生活できた。この頃は絵も時々見るほどでスケッチぐらいしかできなかった。
見ることに興味のある私は眼科外科医をめざし、インターンの頃よりアメリカでの教育を選んだ。海外への憧れが何よりも強かった。医師になってからは、少し時間と経済的に余裕が出来たので、再び芸術の活動を開始した。時間があれば世界の美術館を回り絵画を描いた。眼科医の生活が忙しくなり、しかもなるならば世界一の眼科外科医に成りたいと思った。自分にとっては手術も芸術と同じで、完璧な美しい手術であろうと願った。多くの創意工夫もあり国際眼科学会に挑戦し、今までに最高賞を19回も獲得した。
美術関係者の白内障手術を施行することも多くなり、著名な美術関係者とも知己を得た。銀座の画廊主の吉井長三さんとたびたびパリへご一緒した。ある日、ピカソの孫がパリのギャラリー吉井にピカソの若い頃の絵を売りに来た。吉井さんが、「買いませんか?安くしときます。」と勧める。素晴らしい絵に見えた。でも高価であった。ピカソでも油彩一枚なら買えるかもしれない。一晩考えに考えて、別の心が芽生えた。ピカソを買えてもそれを見る喜びだけだ。それならピカソに負けない絵画を描くことの方が楽しいに違いない。との思いが持ち上がったのだ。高校時代より思いえがいた、成りたい者の第三番目の芸術家への炎が持ち上がった。吉井さんのご紹介でピカソ、ルオー、カトラン、バルテュス、クラーベなどなどの有名作家の親族や、多くのパリの美術館長などと身近に接して話すことができたし、パリなどのアートフェアで著名作家の作品購入の現場に同行させてもらった。さらに、眼科外科医として仕事をしながらだが、深作眼科でも他に弟子が何人も優秀な眼科外科医として育ってきたことで時間を作れ、日本でも佐々木豊さんから油彩画の教授を得て、多摩美術大学大学院に就学し多くの芸術家と近しく接した。自身の油彩大作作成でも、日本や世界の公募展に油彩の大作で挑戦し入選した。並行して、深作眼科ビルなどの自社ビルに横浜と東京の3か所にギャラリーを作り、日本や世界のオークションにも参加して多くを競り落とした。自身も日本美術家連盟会員としてプロ活動をし、自作の油彩画や版画の新作個展を毎年行い発表した。
このような中で、美術の窓編集長の一井氏から誘いを受け、芸術と医学の両方の専門家という立場からの芸術論などを書いてみてはとのお誘いを受けた。これは世界的に見ても画期的な試みである。とりあえず、1年間12回の掲載でやろうと言うことになった。最初は枚数の制限もきつく、かつ目の病気のある患者である、白内障のモネ、網膜症のドガ、硝子体出血のムンク、黄視症のゴッホ白内障で失明したカサット、色覚異常のメリヨン、眼科生理学を応用したタレルなどから始めた。しかし、連載を続けるにつれて、多くの作家論を科学的に分析する方法が面白いと、多くの絵画好きのアマチュアや本当のプロの芸術家など実に多くの方々から感想を頂いた。実はこの連載はひどく大変で、毎回参考文献や本を実に多く読破する必要がある。日本語ではほとんど良い資料が無いので、多くは英語での出版物を読んでいる。毎回20冊以上は読んでいる。本では分からないものも多い。直接世界の展覧会に行ったり、関係者から話を聞いたり、インターネットも利用する。ピカソなど20年間も傍にいた写真家のダンカン氏から南仏のサントロペで何時間も話を聞いたこともある。ムンクの参考にパリのポンピドー美術館に行って、硝子体出血の状況を本人が描いた絵画の写真を撮りに行ったこともある。ベーコンの最後の三幅対絵画にある男性の身元を日本の展示美術館学芸員が展覧会図録でアイルトン・セナなどと書いてあったが、そんな訳が無いと必死で調べイギリスのインターネットでのゲイ・サイトでベーコンとスペイン人カペッロがともに写る写真を見つけた時は、思わず「やった!」と叫んだ。三幅対の顔と全く同じ顔が写真に写っていた。この時のベーコンは実に幸せな顔をしていた。多くの作家を調べる時には丁度難しい患者の治療に当たる時と同じ思いで行っている。患者を自分の身内だったらどうするかと身を入れ過ぎるが、作家の調査もそうだ。セナなど絶対にありえないのだが、日本の学芸員はどの程度調査しているのだろうか。これが日本の専門家と言う人の程度なのかとがっかりした。実は眼科外科でも世界から見た日本のレベルが低く酷く遅れている事に、不満を感じがっかりし続けてきたことに似ている。今や、眼科外科医としては世界中に知られ、世界中から治療を求めて多くの患者が来院する。これと同じ気持ちで、この美術の窓での連載も世界最高レベルで有りたいとの目標持って頑張ってきた。それが今でも連載が続き、今や44回目を超えようとしている。
自分自身も近代絵画を中心として研究し、いつのまにか美大で学ぶより実に多くのことを学習できた。そして、その知識や経験により、西洋世界の中にある芸術の流れを肌で感じるようになった。これが、世界の眼科外科の習得と新たな発展の経験と実に似ているのである。今の密かなる思いは、この学習を通して得た西洋文化での芸術言語体系を駆使して、自らが眼科外科医として世界に躍り出たように、芸術家として世界に躍り出たいと願望していることだ。つまり、自らの挑戦はまだまだこれからなのである。今回の、生活の友社からの出版のご厚意は実にありがたいことである。しかし、これはほんの一里塚であり、今後の挑戦への道しるべにしたいと思っている。