青年は荒野を目指す

『光を!光を。開眼手術』深作秀春、作画、油彩、100F
僕が高校生の頃だったか、五木寛之さんの同様な題名の紀行小説があった。シベリヤ鉄道でヨーロッパに行きフィンランドのホテルに泊まり、そこでの恋愛などが描かれてもいた。
これは後日初めての海外旅行の時であった。僕が医科大学の5年生の夏休み時に、2ヶ月間有効のユーレルパスを使い、列車でヨーロッパを回ったときに、フィンランドで小説と同じホテルに泊まった。街のディスコに行き、そこに来ていた若い連中と酒を飲みながら盛り上がった。中でも特別に可愛い金髪の女の子と気があって仲良しになった。僕は航空大学から医学部に入った為に、もはや26歳であった。しかし、日本人は若く見えるらしく23歳ぐらいにしておいた。これはまるで小説のようなロマンスが生まれたと思った。彼女と熱気のこもるディスコを出て、外へ行こうかと、大人びた美人の彼女に何気なく年を聞いた。すると彼女は15歳と言う。え?と振り返り彼女を見た。その妖艶な唇と形の良い鼻筋の横顔には、透き通るような白い肌の上に、幼い年齢を示す金髪の産毛があった。今とは違う昔の話しである。海外に行くのが憧れだった時代に、僕の恋愛話は海外で起きた。15歳が大人びて見えたのは、西洋へのコンプレックスが有った為か。彼女は僕を好きだと言った。しかし、15歳相手では、さすがにそれ以上の恋愛にはならなかった。外に出ると、酔った顔にフィンランドヘルシンキの夜の風は夏とは言え冷たく、頭はさえて来ていた。しかし、自分の心は熱く高まっていて、僕はこのとき、世界で羽ばたいてやろう、世界に我有り、と西洋世界でも一目置かれる存在になるのだと、妙に強く確信を抱いていた。

また、当時はやっていたフォークグループが、青年は荒野を目指す、との題でヒット曲を作っていた。今でも覚えている。一人で行くんだ幸せに背を向けて、さらば恋人よ、さらば友よ、青年は荒野を荒野を目指す。挑戦し続けるのは青春の特権であるが、挑戦する青春は、若い年の問題ではなく、精神の問題なのであろう。
思い起こせば、僕はこの年になっても、気質や美意識が昔と全く変わらないことに驚く。今でも、青年は荒野を目指す、との気持ちが渦巻く。つまり、常に何かに挑戦し続けているのだ。

高校を出てからパイロットになり、しかし、当時の不景気世相から日本航空へのパイロット就職が閉ざされて方向転換を迫られた。まさか、近年日本航空が破産するとは、人生とは分からないものでもある。パイロットの道を変更し、この為に学費の安い国立大学の医学部に入りなおした。父親が定年退職となったので授業料免除となり、また自分の生活費と学費全てを自活して稼ぎ勉学した。学費稼ぎが教師とともに、商業デザインで一枚につき5万円をもらってデザインした。当時大卒が10万円ほどの月給なのに、月に18万円ほど稼ぎ、休みごとに海外に行けた。これは自らの目を海外に向ける契機でもあった。卒業後の外科医から手先が器用なので眼科医に変わり、眼科の一番の研修先としてアメリカに渡った。眼科医になってからは、世界一の眼科外科医になりたいと、世界中で修行を繰り返した。世界の眼科学会で発表を繰り返し、多くの新しい手術方法などで、国際眼科学会で眼科のアカデミー賞と呼ばれる、最高賞を世界最多の18回も連続受賞して、アメリカ眼科学会のアカデミー基幹会員となり、理事までになった。その後、世界で得たこの最高の技術を、日本の同胞を救う為に、日本最大最高の眼科病院を出身地の横浜西口に作った。これが現在の深作眼科楠町本院である。

こうして、今は何を挑戦しているのか。この写真は実は僕が描いた、100F号の大きな油絵である。僕は今や3番目のプロの生き方として、プロ画家となっている。プロ画家の団体である、日本美術家連盟のれっきとした会員である。実は絵画暦は古く、6歳から油絵を開始しているので、一朝一夕で始めた趣味の世界では無いのである。この世界でピカソを超えてやろうとしている。大作もここ三年で30枚ほど描き、小品は300点ほど描いた。夜中と週末に描いている。このため睡眠時間はさらに短くなり平均3から4時間ほどである。睡眠も仕事も極端に集中して行っている。最近、画廊で個展を開いた。16点の購入があったが、最近の不景気の中では驚異的な人気作家誕生である。